公益財団法人
杉山検校遺徳顕彰会理事長 吉田勉
ホームページを御覧いただきまして誠にありがとうございます。
当会は、江戸時代に活躍した盲人鍼灸師である杉山和一検校の遺徳を顕彰すると共に、その遺志を未来へ繋ぐ活動を行っております。
今日、日本はもとより世界にまで鍼灸治療が広がったのは、あるいは日本において視覚障がい者の自立率が高いのは他ならぬ杉山検校の遺徳によるところが大きいと言えます。
例えば、治療穴に対し鍼を刺す際、従来は注射の時のように鍼を手に持ち、直接刺す「撚鍼法」が主流でした。しかし、杉山検校が管の中に鍼を入れて、管から少し出ている鍼の頭を指で叩いて刺す「管鍼法」を考案してからは、治療穴に対し細い鍼を痛みもなく正確に刺すことが容易となりました。
その結果、鍼灸医学は多いに発展し日本はもとより世界にまで鍼灸治療が広がるきっかけとなりました。
また、鍼按摩術を習得する時も従来は師匠が弟子に対し口伝えで教えるのが常でしたが、杉山検校が「鍼治講習所(学問所)」を開設し、世界で初めて教科書を用いて鍼按摩術を組織的に教えるようになってからは、門人の中から優秀な治療家がぞくぞくと輩出されました。
そして、これ以後鍼按摩術を生活するための術とする視覚障がい者が急速に増え、自立する道が開かれました。
現在、世界の視覚障がい者の中でも、日本の視覚障がい者の自立率が高いのは、杉山検校の功績によるところが大きいといえます。
当会は、このような杉山検校の遺徳を顕彰すると共に鍼灸按摩術をとおして社会に貢献し、この分野において社会的に役立つ人材を育成すると共に、視覚障がい者が自立するうえで手助けをするという杉山検校の遺志を継承し、未来へ繋ぐ活動をいたしております。
天和2年(1682年) 9 月18日、 麹町の杉山検校邸における私塾が幕府公認となったことを期に「鍼治講習所」と改名し、新たにスタートしてから約200年後の明治4年(1871年) 1月 3日太政官布告により、元禄6年(1694年) 5代将軍綱吉公から拝領した本所一つ目の地 (現在の江島杉山神社周辺)の、鍼治講習所は廃止されることになりました。
そして、廃止されてから約20年後、明治23年(1890年) 4月18日、日本の鍼灸医学界あるいは盲界において「中興の祖」ともいうべき杉山和一検校に対し、報恩感謝の念をいだく各界の人達によって、検校ゆかりの地である墨田区千歳1丁目の江島神社(一つ目弁天社)境内に、即妙庵(杉山検校の御霊を祭る社)の再興として「杉山神社」が建立されました。
(その後、昭和27年(1952年) 9月に 江島神社(一つ目弁天社)と合祀され,現在の「江島杉山神社」となりました)
そして、これらの人達によって、明治35年(1902年) 5月に「杉山報恩講」が結成され、祭典法要を営む一方、昭和5年(1930年) 9月26日に 「財団法人杉山検校遺徳顕彰会」が設立されました。
この時代は、前年の昭和4年に世界恐慌が始まり、昭和6年には満州事変、昭和7年には五一五事件と、世の中が暗く重苦しい時期でした。
その以前の大正12年(1923年) 9月1日の関東大震災や、昭和20年(1945年) 3月10日の 東京大空襲で神社が焼失したり、世界的な大不況などを経験しますが、このような苦難も乗り越え、平成26年(2014年) 4月に公益法人の認可を得て「公益財団法人 杉山検校遺徳顕彰会」として新たなスタートを切りました。
さらに、平成28年(2016年)には、活動の拠点となる「杉山和一記念館」が多くの方々の御寄附によって完成し、本格的に杉山検校の遺徳を顕彰するとともに、その遺志を継承し未来へ繋ぐべく様々な活動を行っています。
総裁
1.徳川喜翰 男爵 昭和7年12月~同13年5月
2.井上清純 男爵 昭和14年3月~同20年8月
会長
初代 片山国嘉 医学博士 昭和5年9月~同6年11月
2代 呉秀三 医学博士 昭和6年12月~同7年11月
3代 藤浪剛一 医学博士 昭和8年1月~同17年11月
4代 三宅鑛一 医学博士、帝国大学医科名誉教授 昭和17年12月~同25年12月
5代 太田晴之 鍼師 昭和26年1月~同30年12月
6代 黒沢潤一 医学博士 昭和31年1月~同年11月
7代 太田晴之 鍼師 昭和32年1月~同36年9月
8代 戸田恵 杉山鍼按学校教員、(社)都師会代行委員長 昭和36年10月~同43年12月
9代 太田晴之 鍼師 昭和44年1月~同52年10月
10代 仲田信雄 東京盲人福祉協会長 昭和52年11月~
50周年以降の会長
11代 柿沼政雄 全鍼連広報局長 記載なし
12代 仲田信雄 東京盲人福祉協会長 平成2年7月~同5年7月
13代 加瀬三郎 日盲連副会長 平成8年7月~同17年8月
鹿濱秋信(代行) 東京都盲人福祉協会理事 平成17年9月~同19年8月
14代 和久田哲司 筑波技術大学教授、文学博士 平成19年9月~令和2年5月
15代 吉田 勉 元日本伝統鍼灸学会評議員 令和2年6月~現在
50周年以降の役員は登記簿記載の役員。
| 慶長15年(1610) | 杉山和一、伊勢国津藩(藩主・藤堂高虎)の家臣杉山権右衛門重政の長男として生まれる(戌年) |
| 年代不詳 | 杉山和一、幼くして失明する。(5歳、7歳、10歳か確定せず) 杉山和一、琵琶を妙観派原井勾当に学ぶ 杉山和一、江戸に出て鍼を山瀬啄一に学ぶ。(17歳頃か確定せず) 杉山和一、相模の国(神奈川県)江の島の弁財天の岩屋に籠り管鍼術の妙を得るという(伝説) 杉山和一、江の島を出て再び江戸に帰り、山瀬琢一に弁財天の神応があった次第を述べて、再び随従し鍼術修行する。『杉山先生御伝記』 杉山和一、山瀬琢一の下で5ヵ年修行にて鍼道の妙を得て、山瀬検校は、最早伝える手術も尽きたので、山瀬の師入江中務少輔(良明)へ依頼し、入江(豊明)の門人に加えてもらうようにした。『杉山先生御伝記』 杉山和一、京都での修行7年、鍼業を研鑽熟練して、古今の妙術を得た。また、入江門下で、江の島弁財天の神応にて授かり得た管鍼の法を3年修行し、その術を鍛錬し妙を得る。入江豊明らは卒かに亡くなるに及び、往古よりの秘書1巻を与えた。江戸に戻り開業する。『杉山先生御伝記』 杉山和一、江ノ島道(藤沢宿から江ノ島)沿いに道標を建てる。その中に「願主 麹町に住む」とある |
| 万治元年(1658) | 11月23日 山瀬琢一、検校となる |
| 寛文10年(1670) | 正月元日 杉山和一、検校となる(61歳) |
| 延宝4年(1676) | 11月11日 杉山和一、伊勢国津藩2代藩主・藤堂高次を治療する(67歳) |
| 延宝8年(1680) | 2月11日 杉山和一、江戸城に登城し、将軍徳川家綱を治療することとなり、鳥取藩池田家の治療を断る(71歳) 3月18日 杉山和一の弟子・美津一が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる 3月28日 杉山和一、徳川家綱の治療にあたり初見する 5月8日 徳川家綱、没する。上野寛永寺に葬られる(40歳) 8月23日 徳川綱吉、5代将軍となる |
| 天和2年(1682) | 9月18日 杉山流鍼治稽古所創立と伝えられている(浅田宗伯『皇国名医伝』・『杉山先生御伝記』) |
| 貞享元年(1684) | 4月27日 杉山和一の弟子・春一、鳥取藩に登用される 12月22日 杉山和一、相模国大住郡大神村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする(75歳) |
| 貞享2年(1685) | 正月3日 杉山和一、江戸城の黒書院勝手で将軍徳川綱吉に年始の御目見をする(76歳) 正月8日 杉山和一、綱吉に召されて仕える 8月5日 杉山和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。治療をするが奥医師ではなく「扶持検校」である 8月 杉山和一、道三河岸(大手町)に116坪余りの屋敷を賜う |
| 貞享4年(1687) | 正月14日 三島安一、検校となる(43歳) この年、徳川綱吉は42歳の厄年にあたリ、杉山和一は江ノ島下の宮に護摩堂を建てて、綱吉の厄除けの祈願をする この年、杉山和一の弟子4人が既に大名諸家に登用されていた |
| 元禄元年(1688) | 11月12日 柳沢保明(のちに吉保)、側用人となる |
| 元禄2年(1689) | 5月7日 杉山和一、鷹匠町(神田小川町)に530坪余りの屋敷を賜う(80歳) 10月9日 杉山和一、鍼治の効果が大なので、常に綱吉の治療に召される。褒美に月給が廃止され、代わって年俸300俵となる |
| 元禄3年(1690) | この年、徳川綱吉、湯島の地に聖堂を創建する |
| 元禄4年(1691) | 7月18日 杉山和一、江戸城中勝手向きまで輿に乗ることを許される(82歳) 8月22日 杉山和一の弟子・杉岡語一(つげいち)・三島安一が大奥の治療を命じられ、月給20口を与えられ、医員に召出される。盲人の鍼科医院の登用の最初の事例となる 12月2日 杉山和一と弟子・三島安一が綱吉の治療に当たり、その褒美としてそれぞれに年俸200俵が加増される |
| 元禄5年(1692) | 4月17日 杉山和一、先の綱吉42歳の厄除け祈願い建立した江ノ島弁天の護摩堂に山王宮八大竜王宮十宮神宮為堂を修築し、その朱印地として江ノ島東岸の漁師町(藤沢市江ノ島)10石8斗6升余りを賜う(83歳) 5月9日 杉山和一、綱吉の治療をし、精勤の褒美に27番目検校より関東総検校に任命される 5月9日 杉山和一、綱吉から当道座の式目(定めり)を改正するように命令される 6月9日 杉山和一自身が総検校就任のお礼に京都に上らなければならなかったが、綱吉の治療を昼夜にわたり行っているため暇がなく、職事が代行して京都に上る。和一は、治療をしているが奥医師ではなく「扶持検校」である。 9月29日 杉山和一、死ぬまで緋衣・紋白を許される 9月29日 杉山和一、京都職屋敷に添えて拝領地を賜う 杉山和一、当道座の新式目(定め)を作成し、幕府に提出する 11月3日 先の江の島の護摩堂の朱印地としての証文が、この月日で到来する 12月15日 杉山和一の晴眼の弟子・栗本俊行、老中・小田原藩主・大久保忠朝家医から幕府寄合医員に召出され、年俸200俵を賜う |
| 元禄6年(1693) | 正月26日 栗本俊行が奥医となる 5月16日 杉山和一、南本所一ッ目に1860坪余りの屋敷を賜う(84歳、現在の江島杉山神社を含む) 6月14日 杉山和一の弟子・座頭和田一(島浦益一)、米沢藩上杉家に江戸に老いて月俸5人扶持15両で召し抱えられる(上杉御年譜・『代謡集』) 6月18日 杉山和一、綱吉から弁財天像を賜い、本所一ツ目の屋敷の一部に弁天社を建立する(現在の江島杉山神社) この年、杉山和一、江の島に三重塔(現在の藤沢市江ノ島市民の家の地)を建立する この年、三島安一、奥医師に任命される この年、杉山和一と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する |
| 元禄7年(1694) | 3月10日 杉山和一と三島安一が綱吉の治療にあたるその褒美として給料を和一に300俵(計800俵)、安一に200俵が加増される(85歳) 6月26日 杉山和一、没す(85歳)。実際は5月20日に病没した。観音信仰により5月18日を命日とせよと遺言したが、幕府には6月26日と届け出た(杉山系譜)。遺骸は本所二つ目の真言宗弥勒寺に葬られた後、江の島下ノ宮に葬られる。戒名は「前惣検校即明院殿眼叟元清権大僧都」 7月11日 杉山和一の養子・安兵衛昌長、家を継ぎ小普請となる (以後代々杉山家は武士となる) 8月19日 三島安一、2代目関東総検校を継承する |
| 元禄8年(1694) | 1月9日 徳川綱吉の50歳の慶賀の宴が江戸城中で行われる 9月吉祥日 三島総検校安一が綱吉50歳にあたり健康・長寿の祷願のため、大日如来像を建立する(土浦市大聖寺現存) |
| 元禄13年(1700) | 柳沢吉保の正室・(曽雌)定子が江ノ島の和一の墓の前に灯篭2基を寄進する(杉山和一の七回忌) |
| 元禄14年(1701) | 6月1日 三島総検校安一、綱吉より「大弁才天」の掛物一幅を賜う(57歳、東京都江島杉山神社に所蔵) |
| 元禄16年(1703) | 3月18日 三島総検校安一、駿河台に添地193坪(建長屋有り)の屋敷を拝領する(59歳) |
| 宝永3年(1706) | 10月19日 杉枝真一・島浦益一(子孫は和田)、検校に昇任する |
| 宝永5年(1708) | 7月2日 島浦益一が幕府の医員に召し出され月給20口を賜い、西城大奥に候す |
| 宝永6年(1709) | 1月10日 徳川綱吉、没する。上野寛永寺に葬られる(64歳) 10月19日 三島安一が総検校辞職の願いを出す、辞職は許されるが、治療は続けるように命ぜられる(65歳) 島浦益一が3代目関東総検校を継承する |
| 正徳元年(1711) | 12月15日 島浦総検校益一駿河台に534坪8合(内に建家有り)の屋敷を拝領する |
| 享保2年(1717) | 2月朔日 島浦総検校益一、内藤塾に440坪の屋敷を拝領する この年、杉山家と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接すして存在する |
| 享保5年(1720) | 4月4日 三島安一、没する。谷中(台東区)の元興寺加納院に葬られる(76歳) |
| 享保8年(1723) | 島浦総検校益一、当道座の、職・十老と争う |
| 享保17年(1732) | 横網火事で本所拝領内屋敷・弁財天社が消失する。その後仮屋敷を設ける |
| 享保年中 | 島浦益一、江の島の三重塔を修復する |
| 元文元年(1736) | 2月22日 島浦総検校益一、隠居(致仕)したが、なお西城大奥の療治を承り、2代目和田春徹直秀が家を継ぎ、直秀のいままでの月俸十口を益一が隠居量として 江戸に総検校を置くことを止め、総検校を京都の職検校に返す 3月 島崎登栄一、四代目江戸惣録を継承する(~元文2年6月) |
| 元文2年(1737) | 6月 杉枝真一、五代目江戸惣録を継承する(~元文4年2月) |
| 元文3年(1738) | 12月1日 和田春徹直秀、父島浦総検校益一に先立ちて没する 12月27日 和田春長正直、遺跡を継ぎ小普請医師となる |
| 寛保元年(1741) | 七代惣録白石力一が惣録役所を小川町より本所拝領地に移築する |
| 寛保2年(1742) | 8月29日 島崎登栄一、没する。牛込の浄輪寺に葬られる(68歳) |
| 寛保3年(1743) | 9月28日 島浦益一、没する。浅草正法寺に葬られる(年齢不詳) |
| 延享4年(1747) | 9月23日 杉枝真一、没する。駒込高林寺に葬られる(74歳) |
| 明和6年(1769) | 2月23日 隣町よりの火事にて弁財天社・惣録役所が焼失する その後、二五代惣録若村春一、幕府に10年の富籤興行が許され、弁財天社を再建し、杉山和一位牌所・三島安一位牌所を建立する。小川町より杉山流鍼治稽古所を移転する |
| 元治元年(1864) | 平塚東栄一、正月29日に京都で召し出され奥医師となり、3月17日に検校、4月に総検校と昇進する |
| 慶応3年(1867) | 徳川慶喜、大政を奉還する |
| 慶応4年(1868) | 五箇条の誓文 |
| 明治元年(1868) | 1月 王政復古の発令、和田正長は『針地由来』を政府に提出し鍼術教官を目指したがかなわず 3月 神仏分離令発布 |
| 明治2年(1869) | 東京に遷都、太政官制制定、版籍奉還 |
| 明治4年(1871) | 文部省設置 11月3日 「太政官布告」により当道座廃止される。京都の職屋敷・江戸の惣録役所は没収され、約200年間続いた杉山流鍼治稽古所も廃止される 一つ目弁天社地は、綱吉が古跡並の扱いの由来から没収を免れる |
| 明治5年(1872) | 8月 学制発布 |
| 明治7年(1874) | 7月 一つ目弁天社は市杵島姫命を祀って江島神社と改称し、村社に列す 8月18日 医制発布 |
| 明治13年(1880) | 『杉山三部書』活字和綴じ本を発行する |
| 明治17年(1884) | 6月11日 山口正篤・馬場善太郎が杉山流鍼術伝習所設立願を提出されるが認可されず |
| 明治18年(1885) | 3月25日 「鍼術灸術営業差許方」が通達される 各府県ではり・きゅうの免許鑑札、営業許可、取り締まりを行う。あん摩業は規定がないので鍼灸に準拠される 9月 関澄伯理、榊原学道らは温知舎を起して杉山流管鍼術の復興を図る 12月21日 武蔵野勝虎より鍼灸術導引音律妓芸学校設立願い返却につき鍼灸術等々技芸学校設立願いを再提出するが、不認可となる |
| 明治19年(1886) | 1月9日 吉見英受の音律学校開校願いが認可されず、鍼灸術導引音律妓業学校開校願として再提出する 1月29日 吉見英受より鍼治導引音曲学校設立方建言書進達願い提出するが不認可となる 温知社が杉山流の鍼治学校を願うが許可されず |
| 明治23年(1890) | 杉山流の弟子達が、江島社地内に杉山和一を尊祀する位牌所即明庵を再興し、更にこれを杉山神社として祭祀する ここに明石野検校所蔵の杉山検校木像を安置する |
| 明治35年(1902) | 吉田弘道・千葉勝太郎・馬場白光など諸氏によって、杉山報恩講を発足する 事務所を吉田弘道の自宅・日本橋区新乗物町六番地に置く |
| 明治38年(1905) | 4月 吉見英受所長にて吉田弘道宅で鍼按摩講習所を開設する同年吉見辞任によって吉田所長兼会計となる |
| 明治41年(1908) | 9月21日 鍼按摩講習所を解消し、築地本願寺内に盲人技術学校を創立する。吉田弘道は教頭となる これが現在の文京盲学校となり創立記念日となる |
| 明治43年(1910) | 「鍼術、灸術営業取締規則」「按摩術営業取締規則」が施行される |
| 大正4年(1915) | 12月22日千葉勝太郎、大塚駅近くに杉山鍼按学校を創立し、東京府より認可される(戦災で焼失し・廃校する) |
| 大正12年(1923) | 6月24日 江の島の杉山和一の墓を発掘調査し、甕の中の遺骨を確認する 9月1日 関東大震災により江島神社・杉山神社・墓碑、事務所(吉田弘道宅)など灰燼に帰す |
| 大正13年(1924) | 2月2日 弥勒寺所在の杉山和一墓が史蹟ニ指定される 2月11日 杉山和一に正五位が贈位される 5月18日 杉山検校二百五十年記念会を挙行する 惣録役所跡に杉山検校頌徳記念碑(点文字)を建設し。除幕式を挙行する 弥勒寺検校墓所が史跡として東京府より指定される |
| 大正15年(1926) | 9月18日 吉田弘道らによって杉山神社を再興する |
| 昭和4年(1929) | 9月11日 東京市より旧一つ目弁天社地を一つ目(惣録)屋敷跡標識地として指定される |
| 昭和5年(1930) | 9月26日 杉山検校遺徳顕彰会が財団法人として認可される。事務所は吉田弘道宅・日本橋区長谷川町17番地に置く 12月17日 会報1号を発行する |
| 昭和7年(1932) | 12月30日 徳川喜翰男爵が本会総裁として就任する。杉山三部書を復刻する |
| 昭和11年(1936) | 鍼灸腧穴銅人形像製作に東京博物館所蔵の銅人形を模製。立体長2尺7寸、重量5貫目。図解編を本郷春木町半田屋書籍店にて発刊する 杉山真伝流61世馬場美静享年83歳にて逝去し、真伝流書籍を本会に寄贈する 寄贈書籍:二重箱入14巻(表之巻5、中之巻5、竜虎之巻3、別伝3、軸物等) |
| 昭和14年(1939) | 3月28日 高野山金剛峰寺ニ杉山検校供養塔ヲ建立する |
| 昭和15年(1940) | 財団法人10周年記念祭祀を挙行する |
| 昭和18年(1943) | 杉山和一の没後250年祭を挙行する |
| 昭和20年(1945) | 度々の空襲で、江島社地内は灰燼に帰す。顕彰会関係の損害破損物は、吉田管鍼興祖碑大破、杉山検校頌徳碑中破、弥勒寺墓所と瑩域小破、無難物、法人認可書、三井銀行証書、議事録、会員名簿、会印、真伝流全書、江之島墓所など焼失する。 |
| 昭和23年(1948) | 盲人技術学校を東京都立築地盲学校と改称する |
| 昭和26年(1951) | 江島神社と杉山神社を合祀し名を江島杉山神社に改称する 東京都立築地盲学校を東京都立文京盲学校と改称する。昭和28年に文京区に移転する |
| 昭和27年(1952) | 9月26日 江島杉山神社を竣工する 杉山和一座像を安置する。高さ 20.0cm、幅 21.0cm、奥行 13.5cm、総検校の装束の燕尾帽を冠り、緋色衣に紫袴の装束。左手には 38mm の銀製円筒型鍼管、右手には 43.5mm の金鍼を把持した彩色木座像である ※平塚東栄一製作→明治時代に弟子河人俊悦→弟子加藤国太郎→杉山検校遺徳顕彰会副会長姥山薫→江島杉山神社に奉納 |
| 昭和31年(1956) | 河越恭平『杉山検校伝』を発行する |
| 昭和32年(1957) | 事務所を江島杉山神社社務所に移転する |
| 昭和42年(1967) | 逸品の元禄8年一つ目弁天社奉納鈎燈籠を、市場で発見・購入し、神社に戻す。 |
| 昭和48年(1973) | 杉山検校280年大祭を挙行する |
| 昭和53年(1978) | 4月16日 弥勒寺において、はり供養塔開眼式を挙行する |
| 昭和55年(1980) | 5月20日 杉山検校288回忌、財団法人50周年記念祝典を挙行する 5月20日 『財団創立五十周年記念誌 杉山検校伝』を発行する |
| 平成5年(1993) | 5月20日 姥山 薫(墨字役・牛山和枝)『惣検校杉山和一神正記』を発行する |
| 平成15年(2003) | 社宝琵琶「漣漪」さざなみ)(の本体を多くの浄財で修復する ※寛政年間(1789-1801)に松浦検校所蔵→薩摩藩主島津斉興→麻岡検校→福住検校順賀一、福住検校が江戸惣録に就任した際、当社に寄進したもの |
| 平成16年(2004) | 10月10日 検校歿後310年の記念事業として、杉山の位牌所に奇跡的に保管されていた秘伝書の内、馬場美静伝来の書籍を「秘伝杉山真伝流」として発行する |
| 平成22年(2008) | 5月 杉山和一生誕400年記念式典を挙行する。『杉山和一生誕400年記念誌』『童話 杉山和一 目の見えない人を救った偉人』記念切手を発行する 10月22日 毎日新聞社第47回点字毎日文化賞を受賞する |
| 平成23年(2009) | 『杉山流三部書』3冊・和綴じ本・復刻版を発行する |
| 平成26年(2012) | 4月 財団法人法の改正に伴い「公益財団法人 杉山検校遺徳顕彰会」と改称する。会長より理事長と改称する |
| 平成28年(2014) | 神社境内内に「杉山和一記念館」を多くの浄財で竣工する |
| 平成29年(2017) | 12月5日 厚生労働大臣賞を受賞する |
| 令和元年(2019) | 筑波大学付属視覚特別支援学校の資料室に保管されていた国内唯一の「検校装束」の複成を製作する |
| 令和4年(2022) | 9月 老朽化により、即明庵を解体する |
| 令和5年(2023) | 8月3日 杉山流鍼治稽古所が創立した9月18日が「世界で初めて組織的に視覚障害者教育が始まった日」として一般社団法人日本記念日協会に登録される 11月 第二次世界大戦によって炭化してしまった弁財天像と、社宝琵琶「漣漪」の収納箱(箱裏に琵琶伝来の由緒書)を多くの浄財で修復保存する |
| 令和6年(2024) | 9月8日 香取俊光『杉山流鍼治稽古所(講習所)ー世界初の盲教育施設ー』を発行する 9月18日 江島杉山神社境内に在った杉山流鍼治稽古所跡に記念碑を建立する |
| 令和7年(2025) | 本会創立100周年記念事業の一環として河越恭平『日本盲人生業史ー杉山検校伝ー』を発行する |
| 参考資料 | 川越恭平《日本盲人生業史》 金原廣哉編『大欅録ー管鍼術興祖 吉田弘道先生の業績と記録ー』 杉山遺徳顕彰会《杉山和一生誕400年記念誌》 香取俊光「江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究」(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』所収) 香取俊光『杉山流鍼治稽古所(講習所)ー世界初の盲教育施設ー』 |
| 作成 | 香取俊光作成の表を基本に遺徳顕彰会で編集した。 |
時代は江戸、明治、大正、昭和、令和と次々と変わりましたが、今もなお日本の鍼灸医学界、盲界において杉山和一検校が残した業績は燦然と輝いています。
即ち、杉山和一検校が設立した「鍼治講習所」は、世界で初めて視覚障がい者を対象とする組織的な職業教育機関であり、その伝統は現在の視覚障がい者特別支援学校へと受け継がれ、結果として我が国における視覚障がい者の経済的自立は、世界を見渡しても類のないほど高いものとなりました。
また、管鍼術とその理論は治療穴に対して正確に痛みもなく、細い鍼を刺すことができるという利便性から、鍼灸医学を発展させ世界中で用いられるようになりました。
このように素晴らしい業績を残した杉山和一検校は、明治23年(1890年) 4月18日、先人たちによって神社が建てられ、神として祀られました。
これは杉山和一検校を尊敬し、崇拝する人々が、杉山和一検校やその業績が記憶から失われないようにするための手段として社を建て、その中に神として祀ったと考えることが できます。
例えとしてふさわしくないかも知れませんが、たった今演奏しているそばから消えてゆく音楽を、プラスチックでできているCDの中にとどめるのと似ています。
杉山検校遺徳顕彰会では、今後も杉山和一検校ならびにその業績を長くとどめるとともに、 CDの中にある音楽をプレーヤーにかけて、皆さんに聴いてもらうように、杉山和一検校ならびに、その業績を色々な場所や方法で世の中に知って頂く機会を提供し、鍼灸按摩術をとおして社会に貢献するとともに、この分野において社会に役立つ人材を育成し、視覚障がい者が自立するうえで手助けをする、という杉山検校の遺志を継承し、未来へ繋ぐ活動を行ってゆく所存です。
なにとぞ、当会が行う様々な活動に対し、御理解と御賛同を賜り、会員となって御協力ならびに御参加いただければ幸いです。
最後に、ホームページを御覧いただきまして誠にありがとうございました。